ChatGPTをはじめとする大規模言語モデル(LLM)の進化は、多くの分野で影響を与えています。では、知的財産、特に特許の世界ではどうでしょうか? AIは、特許の新規性や進歩性などを判断する基準となる「当業者(a person skilled in the art)」の代わりになるのかというのが、日本でも大きな議論になっています。
(産業構造審議会特許制度小員会での議論)
産業構造審議会知的財産分科会
第54回特許制度小委員会 議事次第・配布資料一覧日時:令和7年6月4日(水曜日)10時00分開会
会場:特許庁特別会議室(特許庁庁舎16階)+Web会議室議事次第
- これまでの議論の整理について
- AI技術の発達を踏まえた特許制度上の適切な対応について
- 国際的な事業活動におけるネットワーク関連発明等の適切な権利保護について
配布資料
この問題に対し、欧州特許庁(EPO)の審判部が2025年4月15日に下した決定「T 1193/23」は、非常に重要な示唆を与えています。今回は、この審決をみてみようと思います。
事件の概要:クレームの語句の意味の定義に持ち込まれた「ChatGPTの回答」
この事件は、ロータースピニングマシンに関する特許(EP 3 118 356)の有効性を巡る争いでした。今回の事件で注目すべき点で、特許の有効性を主張する特許権者は、口頭審理において、特許請求の範囲(クレーム)に含まれる技術用語(例:「Lageregelung」(軸受制御)や「überprüfen」(検査する))の解釈を補強するため、興味深い証拠を提示しようとしました。それは、ChatGPTに質問して得られた回答です!
審判部に対し、AIの回答をもって自らの主張の正当性を示そうとしたしたそうです。これにより、ChatGPTで得られた回答が当業者の基準として考慮されるかが争点となりました。
審判部の判断:「現時点では無関係(irrelevant)」
審判部は、ChatGPTの回答そのものが「当業者の理解を判断する上で無関係(irrelevant)である」と明確に述べました。
【日本語訳】
大規模言語モデルおよび/または「人工知能」に基づくチャットボットの一般的な普及と利用が増加しているという事実だけでは、得られた回答が、必ずしも特定の技術分野における当業者の理解を(関連する時点で)正確に反映していると見なすことを正当化するものではない。その回答は、ユーザーには知られていないトレーニングデータに基づいている可能性があり、さらに文脈や質問の正確な表現に大きく依存しうるからである。(理由1.1.1参照)
おそらく、LLMがどのような学習データを用いているわからないというブラックボックス性や、プロンプト等により回答が大きく変わりうる再現性、出願時点の技術常識を本当に反映しているかという時間軸の正確性が問題視されたように思われます。
審判部は、当業者の技術常識を証明するためには、専門書や学術論文といった、信頼性と客観性が担保された従来からの証拠を用いるべきだと釘を刺しました。
一方で、今後LLMが透明性や再現性さらに時間軸の正確性などが向上する場合は、当業者としての基準を満たす可能性もあるともいえるため、今後のAIの進化と特許法における当業者の議論がどのように進展してくか注目の事件となります。