特許においては、「先行技術」という概念が非常に重要です。これは、ある発明が特許として認められる「新規性」や「進歩性」があるかどうかを判断する際に参照される、出願日前に公衆に利用可能であったすべての技術情報を指します。
しかし、これまで欧州特許庁(EPO)では、「市場で販売されている製品が、その組成や内部構造が分析・再現できない場合、先行技術と見なされるのか?」という点について、解釈が分かれる問題がありました。この長年の議論に終止符を打つ画期的な決定が、2025年7月4日(または2日)に欧州特許庁拡大審判部(Enlarged Board of Appeal)から出されました。それが下記のG1/23審決です。
https://www.epo.org/en/boards-of-appeal/decisions/g230001ex1
なぜこの問題が起きたのか?:G1/92の解釈と「ENGAGE® 8400」ポリマーの事例
この問題は、太陽電池用封止材に関する欧州特許EP2626911(EP’911)を無効にする欧州特許庁手続きで問題となった法的解釈が、拡大審判部という欧州特許庁の法的解釈を最終判断する合議体に委ねられたものです。争点となった法的解釈は、「ENGAGE® 8400」というポリマーが先行技術として考慮されるべきか、という点です。
- ENGAGE® 8400ポリマー: このポリマーは、特許出願日よりも前から市販で入手可能でした。その特性を示す様々な技術文書も存在していました。
- 再現性の問題: しかし、このポリマーの正確な製造方法は公開されておらず、当業者が分析できたとしても、正確に再現することは容易ではないことは当事者間で争いはありませんでした。
ここで問題となったのが、過去の拡大審判部G1/92の解釈です。G1/92では、「製品の化学組成が先行技術となるのは、製品自体が公衆に利用可能であり、かつ当業者によって分析・再現できる場合である」と述べられていました。
このG1/92の「再現性」に関する解釈が、欧州特許庁の中で異なる解釈を生みました。
- 解釈1: 再現が困難な場合、製品の組成または内部構造のみが先行技術から除外される。
- 解釈2: 再現が困難な場合、製品自体とその組成または内部構造の両方が先行技術から除外される。
特許権者(出願人)は、ENGAGE® 8400ポリマーが再現できないため先行技術ではないと主張し、対して異議申立人(相手方)は、再現性に関わらず先行技術と見なされるべきだと主張しました。この解釈の不統一を解消するため、3つの質問が拡大審判部に付託されることになりました。
拡大審判部に投げかけられた3つの質問
G1/23で拡大審判部に付託された質問は以下の通りです:
- 欧州特許出願の出願日より前に市場に置かれた製品は、その組成または内部構造がその日以前に当業者によって過度な負担なく分析・再現できなかったという唯一の理由によって、欧州特許条約第54条(2)の意義における先行技術から除外されるのか?
- 質問1への回答が「いいえ」である場合、当該製品に関する出願日前に公衆に利用可能とされた技術情報(例:技術パンフレット、非特許文献、特許文献の公開による)は、当業者がその日以前に製品とその組成または内部構造を分析・再現できたか否かに関わらず、欧州特許条約第54条(2)の意義における先行技術の一部を構成するのか?
- 質問1への回答が「はい」であるか、または質問2への回答が「いいえ」である場合、G1/92の見解の意義における「過度な負担なく」製品の組成または内部構造を分析・再現できたか否かを決定するために、どのような基準が適用されるべきか?特に、製品の組成および内部構造が完全に分析可能であり、かつ同一に再現可能であることが要求されるのか?
G1/23決定:市販された製品の先行技術性に関する明確化
そして、拡大審判部はこの3つの質問に対し、以下の回答を示しました。
質問1への回答は「いいえ」です。
したがって、欧州特許出願の出願日より前に市場に置かれた製品は、その組成または内部構造が当業者によって分析・再現できなかったという唯一の理由によって、欧州特許条約第54条(2)の意義における先行技術から除外することはできまないとしました。
この決定では、G1/92における「再現性」は、当業者がその製品を市場から入手し、所有できる能力という広い意味で理解されるべきであるとしているようです。つまり、実際に製造方法が分からなくても、製品自体が手に入れば「再現可能」と見なされる可能性があります。
質問2への回答は「はい」です。
したがって、当該製品に関する出願日前に公衆に利用可能とされた技術情報は、当業者が製品とその組成または内部構造を分析・再現できたか否かに関わらず、欧州特許条約第54条(2)の意義における先行技術の一部を構成すると判断したようです。
質問3は、質問1と2への回答により回答は不要となりました。
この決定が意味すること?
G1/23審決は、特許法における先行技術の解釈に影響を与えるかもしれません。
再現性より「公衆利用可能性」が最重要
この審決は、技術的な再現性ではなく、製品の「公衆利用可能性」こそが先行技術を判断する上で重要視されることを示したといえそうです。これにより、市販されている製品が、その組成や内部構造が再現することが困難だったという理由のみを持って、先行技術を構成しないという主張が難しくなる可能性があります。
物理的な製品の消失と先行技術
たとえ製品が市場から消えたり、変化したりしても、その技術的教示(抽象的な情報内容)は先行技術として残り続ける可能性があるといえそうです。例えば、過去に利用可能だった情報が物理的に消えても(例:短期間公開されたウェブサイトなど)、先行技術として扱うよう今後主張していくことも考えられます